かつて能勢氏の居城があった地黄陣屋の膝元に佇む、農家民宿みちくさ。隣接する自家農園での農業体験や養蜂体験、五右衛門風呂など、昔ながらの農家の暮らしを体験できる人気の宿です。現在の「田舎のおばあちゃんの家に来たような」スタイルに行き着くまでに、実は様々な変遷がありました。オーナーの三上順子さんと農場長の能勢浩介さんに話を伺いました。
「実家のおばあちゃんちに行ったら、田舎の仕事を色々させてくれるやん? みちくさでやってるのは、そういうのを、ちょっと『シュッ』とさせた感じなんです。たとえば、ここに来た子どもらが『あれを見たい、やってみたい』と言ったら『はいはい』言うて見せてあげる。実際に体験すると、子どもが『きゃー』言うて楽しんでくれる。そんな子どもの姿を見た親も喜んでくれる」とオーナーの三上順子(みかみ・ありこ)さん、「私、みちくさの『おばあちゃん的存在』でありたいんですよ」と続けます。 と、すると、農場や養蜂、鶏の世話や、石窯でピザを焼いたり、子どもたちの案内人と、たくさんの仕事を黙々とこなすスタッフの能勢浩介(のせ・こうすけ)さんは、さしずめーー。 「おじいちゃん。全然怒らへんし、なんでも嫌がらずにしてくれる、すごい人(笑)」と三上さんが豪快に笑います。
「よく夫婦と間違われるんですよね。旦那さーん、とか呼ばれたりして」と能勢さんがはにかみます。
まるで本当の「おばあちゃん」と「おじいちゃん」のような2人が中心となって営むみちくさは、それこそ「おばあちゃんち」のようにまた来たくなるのでしょう。なんと、宿泊客の半分くらいがリピーターなのだそうです。
それにしても、夫婦でもなく、生まれ育った場所も違う2人が、どのようにして「みちくさのおばあちゃん / おじいちゃん」となっていったのでしょうか?
少しだけ「昔話」をしてもらいました。
ところが21歳の頃、父親が余命3ヶ月の宣告を受けることになります。三上さんの父親は、中央市場の開場時からある水産仲卸業「三恒」の2代目。三上さんは家業を手伝うことにしました。
「でも、なんだかんだ3ヶ月過ぎても元気そう。こりゃ、オヤジ、どうやら大丈夫やな」ということで、25歳の三上さんは1年間ほど海外へ飛び出して行きました。
旅の途中の2001年9月。三上さんがニューヨークにいたときに、あの「9.11(アメリカ同時多発テロ事件)」が起こります。その5日後の16日には父親の容態が悪化し、他界。三上さんは日本に戻ることにします。壮絶な2001年でした。
その頃、能勢さんはというと……。
「ふつうにバイトしてましたね。カラオケ屋でテレビを見ていたら、9.11のニュースがやっていて、うわっ、て」
川西市の大和団地で育った能勢さんは、ご本人曰く「なんでも中間の人間」。中学校の成績もちょうど中間くらい。ちょっと勉強のできる高校に入ったら「見事に落ちこぼれてしまいました」。
「その頃はクラブが流行っていて、僕もそういうところで遊んでいたんですけど、どっぷりとカルチャーに浸かろうにも、自分はゲットー育ちでもないから……、という感じでした」。
能勢さんの人生に方向性を与えたのは、通っていた学校の卒業製作だったかもしれない、と振り返ります。 「グラフィックデザインを仕事にしたくて、そういう学校に2校行ったんです。最初に通っていた京都インターアクト美術学校の教えの影響もあって、その後に通っていた学校の卒業制作では『環境問題を扱ったゴミ袋』をつくったんです」。それは、ゴミ袋の表面に環境負荷についてのメッセージを印刷したものでした。
卒業後には目標どおりグラフィックデザイナーとして不動産広告をつくる会社などで働きますが、その頃は、リーマンショック前夜。サブプライムモーゲージに下支えされ、不動産業界がイケイケの時代でした。
「基本的にはいかに建物を光らせるかってのが不動産広告の仕事で、バッキバキに光らせた広告をつくりながら、どこか違和感を感じていました」。 かつて芽生えた「デザインとは何か、ものづくりとは何か」についての疑問が心のなかで横たわり、「自分はなにしてるんだろう」と考え始めた能勢さん。
とあるきっかけで、2008年には能勢町で有機農業を始めた第一世代である尾崎零さんの農場「べじたぶる・はーつ」で、半年間の農業研修を受けることにしました。
こうして、農業研修をきっかけに2人とも能勢に辿り着いたのですが、より親密になったのは、現在のみちくさの原点となった山小屋を借りた頃でした。
そんなある日、能勢さんが、べじたぶる・はーつの運営する飲食店で三上さんと一緒に働いていた奥さんから「アリさん(三上さんのこと)って覚えてる? 山小屋を手伝ってくれる人を探してるみたい」と声をかけられました。
「若かったんでしょうね。5〜6畳の掘建て小屋で妻と寝泊りしてました。時にはアリさんも入ってきて、狭いところで雑魚寝みたいな……。冬なんか、ほとんど外と一緒の気温でしたよ」と能勢さん。「ほんま、むちゃくちゃやっとったなぁ」と三上さんが笑います。
その山小屋は5年後には持ち主に返すのですが、すぐ近くに借りた畑ではイベントやライブなどで集まったみんなで野菜づくりをしていました。
「あの時は、耕運機を動かしただけで大騒ぎして、楽しんでいましたね」。
その時の経験が、農場を併設した現在のみちくさにつながっているようです。
ところで、三上さんも能勢さんもやろうと思えばガツガツに仕事する人たちのようにみえます。でも、「欲しい年収を目標にして、それ以上は働きすぎない」ことがモットーで、週の半分だけお店を開き、毎年、真冬には1ヶ月ほど休暇をとるようにしています。
民宿を運営する以外の時間は、三上さんは農業を軸にした手仕事やヨガに、能勢さんは有機農業の研究や実践に当て、その結果、みちくさはどんどん豊かな場所になっていくわけです。
バリバリの経営者だった三上さん、ガンガン不動産の広告をつくっていたグラフィックデザイナーの能勢さん。2人が、それぞれの暮らしのありようを模索しながら、生活のスローダウン、スケールダウンをしていく過程を楽しめるのが、農家民宿みちくさなのではないでしょうか。
「ちょっと、みちくさ食っていきませんかーー」
2人から昔話を聞いたあとには、この言葉がいっそう、すとんと腑に落ちます。