2017年5月27日にオープンした薪パン日々。
パン職人である井上さんの薪窯パンを求めて、遠くからお客さんが来たり、開店時間前から待機するお客さんが出たり、開店2年で「大けやきの前のパン屋さん」として、順調に知名度を高めてきました。
そんな薪パン日々に霹靂がさしたのは、2019年11月の最終週のことーー。
野球をしていた時に遊離軟骨になったせいもあるだろうし、20代の時からパン屋さんでがむしゃらに働いてきたこともあるのでしょう。軟骨が痛んでギザギザになった右肘にはリンパ液が溜まり、炎症を起こしていました。
オープンしてからの2年間は、仕事に夢中になる一方で、独立する前よりも過酷な働き方をしてきたそうです。1年前も腰を痛めましたがなんとか店を開け続けました。しかし、この時ばかりは肘が痛くて何もできず、薪パン日々オープン以来の初めての長期休暇をとらざるをえなくなりました。
でも、本当は薪を割りたい、パンを焼きたい、仕事がしたい……。
「しばらく休んでいると痛みが引いてきて、12月22日だったかな、ちょっと仕事をしてみたんです。そしたらまた激痛が走って……。あれはへこみましたね。色々考えましたよ」。もし、今後、パン屋さんをやれなくなったらどうしようかーー。
「せっかく石窯をつくったんだから、焼き芋屋さんでもしようか、とかも考えました。下の子は、自分が好きだからって、『カレー屋さんがいい!』って(笑)案外、楽観的なんですよ!」。
でも、もし腕が治って、パンを焼けるようになったらーー。
「これまでの働き方を変えようと思いました。右肘を労るという意味では、手数の多い、小さいパンを減らす。それで、薪窯の持ち味を発揮させられるような、ドシンとした大きなパンをたくさん焼いてみたい。そこの大けやきで、すぐ食べられる小さなパンを求めているお客さんもいらっしゃるので申し訳ないんですが、自分にとってパンでどこまでいけるか、やってみたくなったんです」。
家族や地域の人に協力してもらいながら、治療とリハビリを続けた結果、2020年の1月16日から、お店を再開することができました。 新しい「薪パン日々」が始まったのです。
「パンの生地を発酵させるためには、小麦と全粒粉に水を加えて発酵させた天然酵母や、レーズン酵母を使っています。ニオイを嗅いでみてください」。
ぷくぷくと泡立つ酵母に鼻を近づけると、甘酸っぱい香りがします。レーズンのほうは、イメージ通り、小麦よりも少し甘く、フルーティーな香り。
これらを単品で使ったり、混ぜ合わせたりして、薪パン日々の味にしていきます。
「ここでできた菌を、また次の酵母をつくるときの種酵母にして、「種つぎ」します。ここがオープンしてからずっと繋いできた酵母なんですけど、肘を傷めた時には管理もできないし、一度、おしまいにしようと思ったんです。でも、妻にアカンって、止められました」。
普段はアンパンの餡子や、クロックムッシュのホワイトソースなど、主に「具」を担当する妻の幸(さち)さんが「私がやるから教えて!」と言ってくれたそうです。
さらに、もうひとつ、井上さんが挑戦したこと。それが、今まで使っていたドライイーストの見直しでした。
「大きい食パンにはドライイーストを使うんですけど、なんか引っかかってたんです。原材料に、乳化剤ってあるんですよ。これがなんなのかよくわからないのが、自分的にはどうなのかと思ってモヤモヤしていたんです」。
そこで、ドライイーストもオーガニックのものに変更。値段は通常のものの5倍もするのですが、有機のトウモロコシとダイズを使った、乳化剤が入っていないものです。
「オーガニックのイーストにまだ慣れていないので、パンの出来に波があるんですが、できるだけ安定させていきたいですね」。
そういって、レシピを見ながら、仕込みを始める井上さん。いつも同じ分量にするのではなく、毎回が挑戦と言わんばかりに、自分の思い描くパンを目指して、レシピをマイナーチェンジしているそうです。
あたりがまだ暗い早朝5時半にお邪魔すると、すでに薪窯の煙突から煙が出ていました。
約15分置きに窯に薪をくべて目的の温度まで窯の温度を高めつつ、それと同時に生地の分割や成形、その合間に道具の掃除もする井上さん。
「これくらいじゃないと、一人じゃ終わらないんですよね」と苦笑い。ストップウォッチの音が鳴るたびに、右へ左へ、まさに分刻みのスケジュールで慌ただしく働いています。 窯が310〜320度まで温まると、最初に焼くパン、フランスパンとガーリックフランスを投入します。
「薪窯は、電気オーブンに比べて、焼く時間が3分の2くらいになります。高い温度で短時間で焼くので、水分が飛びすぎず、中のほうもしっとりと仕上がるんです。それが、この窯で焼いたパンの特徴です」。 パンが焼けるあいだに、生地を分割していきますが、「怪我してからは、左手でやるようになったんです」。
だんだんと工房の中が様々なパンの香りに満たされてきました。発酵機を開け閉めするたびに漂う酵母の香りに加え、煙のにおい、パンが焼ける香り、焼けたベーコンの甘い香り、そして、ふくよかなチーズの香り……。
チーズの香りの正体は、パルミジャーノ・レッジャーノを生地に練り込んだパルミジャーノブレッド。休業中に井上さんがつくりたいと思い描いていたパンです。
「チーズを挟み込むチーズフランスとは違って、チーズそのものの感じはないけれど、風味が、どん、と来るようなパンにしたかったんです」。
オープンの30分前。
10時半になると、工房の窓からお客さんが集まり始めるのが見えました。井上さんの慌ただしさは、もうしばらく続きます。
「独立して能勢でパンを焼くなら、自分で山に入って、木を切り出して、薪を割って、パンを焼いて、って、全部自分でやれればいいな、と思い描いていたんですよ。でも、現実はなかなか大変でした。一度、道の倒木処理を手伝わせてもらったことがあったんですけど、けっこう危なくて、難しいな、と思ったんです。だから、色んな人の手を借りてでも、地域で出た木でパンを焼く、今のやり方になってるんです」。
使う薪は、1回のパン焼きで約10束ほど。年間で2400束くらいでしょうか。購入する薪もありますが、自ら割る薪のほとんどが地元の材です。
ちょうどこの日は、近所に住む仲植旭(なかうえ・あきら)さんがふらりとやってきて、「田の陰になっとったスギを切ったさかい、明日の昼、運ぶの手伝ってもらえへんか? 針葉樹やから、火力があってええと思う」と去っていきました。
「薪のことは、身内も、近くの人も心配してくれていました。こうやって薪を提供してくれる人もいて、ときどきお礼に食パンなんかをさっと持っていきます。さっきの旭さんは、甘いのが好きなので、アンパンですね」。
薪を割る井上さんを取材していると、「何、かっこええこと言おうとしとん?」と、息子の陽(はる)くんが登場しました。気怠そうにしながらも、右手には2年前の誕生日に買ってもらったというマイ斧をしっかり握っています。お願いすると、「おじいちゃん仕込みの技」で薪をスパーンと割って見せてくれました。
薪パン日々の「日々」には、「まわる・めぐる」という意味が込められているそうです。 井上家の日々が再びまわり出したことで、地域の薪がパンとなって地域の人の食卓にのぼる日常がまた始まりました。井上さんの工房から見える大ケヤキもまた、新しい日々に向けて、芽吹き始めたところです。