能勢の特産品「三白三黒」の一つに数えられる高野豆腐。かつては「大阪北山の高野豆腐」として名を轟かせた能勢の特産品。今は失われてしまった高野豆腐工場が能勢街道沿いにありました。兵庫の香美町、大阪の千早赤坂村や天満といった地名とともに、当時の様子が浮かび上がってきました。
家主の谷林喜久治(たにばやし・きくじ)さんが指差す門構えの松は、樹齢100年以上を経ても、枝ぶりが柔らかく若々しい、京風仕立ての松でした。 生まれも育ちも東郷で、谷林家の9代目に当たるという喜久治さん(現在76歳)。当時のお話を伺ったところ、この場所には、今では見られない、別の風景が広がっていたようです。
喜久治さんの曽祖父に当たる菊松(きくまつ)さんは石灰の採掘場で働いていたそうですが、祖父である喜太郎(きたろう)さんの代になると、百姓に加え、稲刈りが終わる10月から翌年の2月いっぱいまで、自宅で高野豆腐の製造を始めたそうです。
高野豆腐は、豆腐を凍結、低温熟成させた後に乾燥させた保存食品。冬場の厳しい寒さを活かした能勢の高野豆腐は「三白三黒(※)」の一つに数えられるほどの特産品でした。 能勢町に高野豆腐の製法が伝わったのは天保の頃(1830〜1843年)に近江国の文右衛門なる人物が天王村に伝えた説と、万延元年(1860年)頃に回国の僧侶から「おたつばあさん」が教わったという説の2通りがあるようですが、高野豆腐の仕事は、冬場の主だった仕事が林業くらいしかなかった能勢では広く受け入れられました。
そして、天王から町内へ、そして東郷にも広がり、谷林家も明治39年(1906年)から製造を始めました。
※三白=米・寒天・高野豆腐、三黒=栗・炭・黒牛
喜久治さんの幼少の頃、10月になると、よその町から十数人の「職人」が来たそうです。 「各小屋(工場)によっても違うんですが、但馬地方や、京都方面から、高野豆腐をつくる釜元を呼ぶんですよ。2月まではその人たちが、うちの別棟で寝泊まりして、3交代制で24時間、仕事をするんです。母親は、職人たちに食事を出していましたね。うちに来ていたのは、但馬の『村岡』というところの職人たちだったと思います」。
「村岡」とは、きっと、兵庫県の旧七美郡村岡町のことでしょう。現在は周辺合併し、兵庫県美方郡香美町村岡区となっています。 村岡町では、水田や和牛飼育、養蚕などを夏場の仕事とするほか、積雪の多い冬場は「但馬杜氏」として地方の酒蔵に出稼ぎに行く者が多かったようです。その一方で、最盛期には、高野豆腐づくりを生業にする人たちも同じくらいいたといいます。
「これ、これ。一度、文化祭で展示したことがあるんですよ」と、喜久治さんが持ってきてくれた写真に、その当時の断片が残っていました。
高野豆腐の製造方法を簡単に紹介すると、硬めの白豆腐をつくり、水槽に入れて保存するまでは一般的な豆腐づくりと同じ。その豆腐を、「凍て」が来ると釜元が判断すると、家族も動員して、小切りにして干し板に並べ、外の「棚場」に置き、翌朝、凍った豆腐を桶に入れます。「凍て」がない日が続くと、水槽の中で豆腐を保存せざるをえず、ダメになってしまいます。これが、天然高野豆腐の難しいところなのです。
「一晩凍てさせたものが『一夜』言うてね。普通に売られているものよりも柔らかい。少量ですが、周りの人に小売りもしていたんですよ。原料の大豆と交換で」。
一夜豆腐を3日ほど寝かしたうえで、湯で戻し、水分を絞って乾燥させたものが、私たちの知るところの「高野豆腐」です。
また、製造過程出るオカラは、春に馬喰から購入した農耕兼肥育和牛(血統書つきの但馬牛)に給与するほか、農協とも契約し、飼料や肥料などとして配られました。能勢の特産であった「高野豆腐」と「黒牛」は密接に繋がっていたのです。
「できた高野豆腐のほとんどは、大阪の天満に問屋があって、そこに売っていました」。
はっきりとはわかりませんが、天神橋北詰・北区菅原町一帯にあったという乾物問屋街のことでしょうか。
今でこそ、能勢は「大阪のチベット」と呼ばれることもありますが、高野豆腐業界では「大阪の北山」として、を名を轟かせていました。寒暖差の激しい気候を活かしてつくられた北山の「関西天然高野豆腐」は、天満の問屋でも重宝されたようです。
大阪府内でもう一つの大きな産地が「千早」こと、千早村(現在は合併して千早赤阪村)でした。じつは、こことも交流があったようです。 「暖冬の影響と言いますが、能勢でもだんだんと高野豆腐をつくるのが難しくなってきた。そこで、先に冷凍設備を導入した千早赤坂村に豆を持っていって、商品にしてもらったこともあったようです」。
「凍み」がなくとも、高野豆腐をつくることができる冷凍設備は、千早村に続いて、能勢町でも昭和23年(1948年)に取り入れられ、谷林家でも昭和26年(1951年)に導入。
「詳しくはわかりませんが、設備費がかさんだこともあって、うまくいかなかったようです。教師をするかたわら工場を経営していた父親(喜善さん)の代で閉めました」。
冷凍工場導入から10年後の昭和36年(1961年)のこと、喜久治さんが18歳の時でした。その2年後には町内の工場が閉鎖し、最盛期には50軒近くあった「大阪の北山」の天然高野豆腐づくりは幕を閉じました。暖冬異変があり出荷量が不安定だったこと、冷凍高野豆腐や、安定供給できる高野豆腐の製法が開発されたこと、長野県の大企業が進出してきたということもあったようです。
天然ものにこだわった千早村でも昭和30年(1955年)には天然高野豆腐の工場がすべて閉鎖し、手工業から機械工業に転換したことにともなって、手仕事で生きてきた但馬の職人たちも出稼ぎ先を変えざるをえなくなりました。
そして、現在。「ちょうど、ここに豆腐を並べていたんです。この屋根はお隣の家ですね。もう煙突はないですけど、ほら、そこの倉庫が仕事場だったんです。大豆を炊くところからパイプを引っ張って、隣の乾燥施設に引き込んでいたんですよ」と、喜久治さんが当時を振り返ります。もともとあった豆腐を凍てさせる「棚場」は、今は、畑になっていますが、そこから見下ろす風景に、名残は、しっかりと残っていました。
「小さい頃は、学校に行く前や帰ってきたとき、豆腐を炊く小屋で暖をとったりしました。高野豆腐をカンナで削って形を整える仕事も手伝いましたね」。そう言いながら、高野豆腐を回転式のカンナで削る仕草をする喜久治さん。そんな話を聞いていると、確かに、ここに高野豆腐工場があった、という事実を感じることができました。