本能寺の変で明智光秀に与党して没落した能勢頼次は、関ヶ原の戦いで軍功を上げ、旧領と数十か所の村領地が安堵され能勢に復帰する。能勢頼次とその一族の所領を合わせると7,800石余となり、丸山城から石垣や建物を移し地黄城を築城した。
能勢妙見山は「能勢の妙見さん」として知られる、関西随一の妙見大菩薩霊場です。行基が開いたとされ、1200年の歴史ある日蓮宗霊場です。開運・芸能を司る北極星の神様「妙見大菩薩」が祀られています。
国の天然記念物に指定されたケヤキの巨木で、樹齢は1,000年以上と推定されています。この木の周辺には蟻無宮(ありなしのみや)があり、この大けやきは御神木として愛されてきました。
古くは「布留の宮」ともいわれていて、饒速日命を祀る延喜式内社です。秋の例大祭には、6基のだんじりと1基の松だんじりが宮入りし、獅子舞の奉納と演劇が催されます。
壇ノ浦から逃れてきた安徳天皇の遺品が納められていた神社。明治35年、社殿下から養和元年(1181年)在銘の経筒1個、鏡1個、刀剣10本などが出土しました。これら出土品は現在、東京国立博物館に保管されています。
能勢氏中興の祖能勢頼次公が、亡き父頼幸の菩提を弔うため開建しました。境内には能勢一族代々の五輪塔、宝塔、笠塔婆、板碑がならんでいます。大阪府で最も古い本堂は府指定文化財。
摂津源氏の源頼国は、長元年間、この地に入部して能勢氏を名乗り、丸山城を築いたといわれています。地黄城ができるまで、ここが能勢氏の本拠地でした。
能勢頼次により、徳川家康の菩提のためと能勢氏の祈願所として建立されました。関西身延と称し、古くより近畿の霊場として著名です。
真如寺の東方約1Kmのところに妙見山奥の院があります。古来、妙見山、奥の院、真如寺の三カ所を唱題行脚することは、その功徳絶大とされました。
平安時代に近江守・源仲信によって建立されました。国指定重要文化財である大日如来坐像が窃盗にあいましたが7年後に戻ってきて全国的に話題になりました。
開祖野間日照上人が、大正十年六月に大和方面より薫香院という寺を現在の地に移転する許可を得、大正十五年十一月に「本瀧寺」に改称。 昭和十年に本殿を落成。
野間中の圓珠寺の南側にそびえる比高80mほどの山稜が野間城跡です。主郭は南西背後に土塁があり、その上に白髭稲生神社跡があります。
野間豊後守によって小倉山に城を築くものの、完成間際で中止(理由は謎)になったものであると北摂の歴史では伝えられています。
壇ノ浦から逃れてきた安徳天皇が隠棲されたのが野間大原である。天皇崩御後は、天皇のお作りになった歌をこの地に持ってきて「くるみ権現」として祭りをした。これが来見社の縁起とされる。
ブッポウソウ目カワセミ科カワセミ属に属する鳥。水辺に生息する小鳥。鮮やかな水色の体と長いくちばしが特徴。腹はオレンジ、翼は緑、背はコバルトブルー、頬には白い部分があります。
日本固有種で、本州、四国、九州と周囲の島に分布し、水がきれいな川に生息します。この光はメスとめぐり合うための合図で、お互いに相手をまちがえないように、光が点滅するパターンが異なります。
能勢町のシンボルツリー、野間の大けやき。樹齢1000年以上と言われるこの木は、毎年小さな命を育んできました。フクロウは3月から5月にかけて、大けやきの中央最上部の洞(うろ)を利用して営巣します。
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